edamamesakuraの部屋

趣味で描いてる漫画や、好きな作家さんについて書いています。

「稲村ジェーン」

追記 (2021年4月22日)

祝!ブルーレイ&DVD化決定 

「稲村ジェーン」通常版(Blu-ray)

「稲村ジェーン」通常版(Blu-ray)

  • 発売日: 2021/06/25
  • メディア: Blu-ray

 通常版

 

 

  こちらは、ダイハツミゼットのミニチュアモデルと決定稿台本が付くそうです。

 

 

 

 

ブルーレイはおろかDVDになった事もなく、今現在、鑑賞がかなり困難になってしまった映画「稲村ジェーン
文字通り幻の映画となってしまい、今では覚えている人も少なくなり、今後もその傾向は変わらないと思われるので、記憶している事をツラツラと書き連ねておきます。

桑田佳祐さんが映画を作っているという情報は一年ほど前くらいからサザンオールスターズ応援団(要はファンクラブ)の会報で知っていましたが、あまりファンの間で盛り上がっているという事はなく「あーそうなの?」という感じだったと思います。
年が明けて1990年初頭からの全国ツアー「夢で逢いまSHOW」でNEWアルバム「Southern All Stars」の中の一曲「忘れられたbig wave」が披露された際、バックの映像で、初めて私達は映画「稲村ジェーン」の映像の一部を観る事になりました。
何となくいい雰囲気だなぁ、3輪オートのミゼットオシャレだなぁ、本当に映画作ってるんだなぁと思いました。

7月に新曲「真夏の果実」がリリース。

そしてこの楽曲と映画「稲村ジェーン」の映像が使用された、リクルート求人情報誌「B-ing」のCMが大量オンエア。
映画「稲村ジェーン」の大ヒットは、このCMの影響力が大きかったと思います。
北野武さんもコメントしておられましたが、CMで切り取った「稲村ジェーン」は音楽との相乗効果も相なって素晴らしい映画のように見えました。
洞窟の中から海を眺めながら男二人が語らうようなシーン、別の洞窟で男二人とヒロインが何かを探すように彷徨うシーン、夏の太陽の下を走るミゼット、幻想的な縁日の風車、そして夜空に大輪の花火…
やたら感動的で華がある30秒の映像でした。
それが実際の映画では、確かにそのシーンはあるのですが「えー、こんなもんなの?」というような、登場人物達の心情と全くシンクロしてない、ただ出てきただけという印象でした。
ここら辺、当時の角川映画でよくあったパターンで、CMで観た時は「凄い作品に違いない!」と思って劇場へ足を運んだけれど、実際は…みたいな現象が起こったのでした。

当時のスポーツ新聞の芸能欄で「稲村ジェーン、マリオン直撃!」という見出しで、9月8日に迎えた公開初日、東京銀座の有楽町マリオンを入場待ちのお客さんの長蛇の列が、建物の周りを一周していた様子を大きく伝えていたのを記憶しています。
この記事を見た私は映画の想定外の大ヒットに驚き、これは何としてもマリオンで観なくてはと平日の昼間鑑賞しました。それでも8割くらいはお客さんで埋まっていました。

映画は、ライダーズと呼ばれるサーファーグループの仲間達がサーフボードをチェーンソーで今から真っ二つにしようとするシーンから始まります。
「ボードの中身が何かわかれば、アメ公から高いボード買わなくても、俺たちでボード削れるじゃん!」
結局、中身はただのウレタンで、その為に貴重なボードを1個オシャカにしてしまったと、後からリーダーの尾身としのり演じるサトルに笑われます。

映画の主な登場人物である、主演の男3人 ヒロシ:加勢大周  マサシ:金山一彦 カッチャン:的場浩司 そしてヒロインの 波子:清水美砂 ではなく、
脇役達のエピソードから始まった時点で、この映画は群像劇的にやりたいんだろうなと思いましたし、このシーンの内容自体も何か意味深な気がします。

もともとこの映画はそれほど多くの劇場での公開を想定してなくて、ミニシアター的展開を予定していたらしく、おそらく脚本の康珍化さんは、ストーリーの山場とか見せ方を重視するのではなく、雰囲気重視で、台詞も、直観や感性寄りのもので、片岡義男の小説や、ジム・ジャームッシュの映画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」風な仕上がりの映画になるのを想定して台本を書いたと推測されます。
その脚本を読んだ事はないのですが、伊武雅刀とパンタによる台詞を抜粋してみると、どんな雰囲気のホンだったのか想像できると思います。

(写真を見ながら)

「お前がいるよ」
「お前もいるよ」
「あいつもいるよ」
「ジェーンもいるよ」

ナレーション
「暑かったけど、短かったよね。夏」

桑田さんは最近も「週刊文春」に連載中のコラムで「稲村ジェーン」について触れ、「康珍化さんに素晴らしい脚本を書いて頂き」とコメントしております。
歯車が狂いだしたのは、本来小さく作ろうとしていたものを、気が変わって大きく作ろうとした事からではないかと個人的には想像します。

 


稲村ジェーン」公開当時、銀座で2回、新宿で1回、池袋で1回、八王子で1回、埼玉の浦和で1回の計6回くらい観ました。
1回観ただけでは訳が分からない事が多く、何度も観れば理解できるのではないかという期待、それといろいろ違う劇場の雰囲気で映画を楽しみたいという狙いがありました。
東京生活3年目、こういう動機でもなければ、足を向ける機会はないだろうという理由で八王子は出向きました。
9月のロードショー公開後、その後の東宝作品がことごとく大コケしてしまった為、急遽、2本立て上映されるようになり、浦和で観たのは年明けの2月に「!(アイオー)」という作品との併映でした。

映画が始まって1時間くらい経過すると、かつて体験したことのない現象を目の当たりにする事になります。
観客数が少ない劇場なら1、2名ですが、多い時は10~20名くらいのお客が一人、また一人と映画の途中で席を立ち、そのままいなくなってしまうのです。

通常、どんなに評判の良くないつまらない映画でも高い入場料を払ってるのだから、それほどおいそれと途中で席を立つのを目にする機会はあまりありません。
しかし、つまんないなーと思いながらも我慢できる映画と、そこにいるのが耐えられなくなる映画の2種類があるようで「稲村ジェーン」は後者なのでした。

なぜそんな現象が起こるのか、自論を言葉で説明するのは難しいのですが、
もし、主要メンバーによるエピソードだけが続いて、それがつまらないならまだ耐えられそうですが、「稲村ジェーン」は稲村ケ崎に住む人々による群像劇の形態を取っているので、
脇役や、いきなり出てきた「こいつ誰?」みたいな人物達のエピソードが、主要メンバー達のエピソードと同じテンポ、同じ長さで順番に整列した状態で待機待ちしていて、
それを一つ一つ、観客は順番通りに見せられる事を次第に悟り、「これはたまらん!」と逃げ出すように席を立つ、そんな感じでしょうか…

これは演出の工夫で、もし各エピソードの並びが長い尺の後に短いものが来る、とかの緩急があれば耐えられるものになっていたかもしれません。
稲村ジェーン」はもともと3時間くらいあって、それを無理やり2時間にまとめたので、もしもっと長いバージョンで作れたら完成度が上がってたかもしれない、という意見も当時ありましたが、
フィルムの切り貼りの手腕が2時間バージョンと同じなら、更に冗長で退屈さが倍増しただけになっていたと思います。
エンディングで流れる、本編でカットされた男女のカップルや毛ガニさんのエピソードは、メインのストーリーとの関連性は薄そうでしたし…

後、気になったのは結構、笑いを取るシーンやエピソードが随所に散りばめられているのですが(鎌倉の金さんの豪邸の妙な構造のトイレとか、遠近法が歪んだビールジョッキとか、加瀬邦彦のそっくりさんへのツッコミとか)
それが、お客さんからくすくす笑いを引き出す事は出来ても、爆笑を引き出す事が出来ず、散発で終わってしまうのでした。

映画は後半、巨大台風ジェーンが到来するまでは劇場のエアコンの冷房も相なって、妙に涼しいひんやりとした雰囲気のまま時間が経過していくのでした。
私はいつも一人で鑑賞していたし、周りのお客さんの反応を気にしていたので、余計そう感じたというのもあります。

 

 

主な登場人物に魅力が無ければ、おのずとつまらない作品になりますが、この映画はそんな事はないと思います。

主要キャラクターの男3人女1人についてですが、
金山一彦演じるマサシはお調子者の憎めないヤツ、的場浩司演じるヤクザのカッチャンは、半端者のヘタレヤクザ。
二人とも、この作品以前から役者としての実績があり、どちらも愛嬌のあるキャラクターになっています。
主人公である、加勢大周演じるヒロシが、だいぶ鬱屈した性格で、二言目には「俺たち、他人だからな!」というセリフで、仲間達との距離を隔てます。
そのくせ世話になっている草刈正雄演じる、骨董屋の主人の事は尊敬していてデレてるようなのですが、加勢の演技が未熟というか、あまり役を理解してないような印象で、台詞に頼らず演技で説明する部分が観ている方としては分かりづらい…
波子に心を開いていく過程も、挿入曲「希望の轍」をバックにしたイメージシーンで説明されますが、PVではなく、演技やエピソードで観る側にそれを実感させてほしかった。

主人公が感情移入を拒むので、なかなか期待してたような若者達の青春グラフィティという雰囲気にはなりづらい。
それなのに挿入歌「忘れられたBig Wave」が流れ出すと、急に和気あいあいと夜の海辺の砂浜で、僕達仲良しみたいなじゃれ合いが始まり、花火と共にみんなでお手々を繋いで後ろへダイブしたりする。
キャラクター達の心情の変化が描かれた後にそうなるのではなく、ただ音楽が流れ出したから、そういう動きを始めるという印象がしてしまい、がっかりシーンでした。

清水美砂演じる波子は、天真爛漫なトルコ(死語!)嬢で、彼女の髪形やファッションが実際以上にそれを魅力的に見せていたと思います。
そしてこの後、今村昌平監督に気に入られて、「うなぎ」「カンゾー先生」「橋の下のぬるい水」と連続で起用されます。

 

 

そもそも自然災害であり、莫大な被害をもたらし、怪我人や死傷者も出るかもしれない台風の大波を待ち焦がれている人々、という設定は、「TSUNAMI」というタイトルの楽曲が不謹慎という事でほぼ封印されている現在では受け入れられそうもありません。


ただ、「稲村ジェーン」にしても「TSUNAMI」にしても、当時はほとんど問題視されませんでした。個人的には「大きな波」という認識しかありませんでした。
どちらも、本当の自然災害の恐ろしさを知る機会がほとんどなく無知でいられた平和な時代の象徴のような作品だと思っています。


台風が接近してくると物語が動きだしたような感じがしてきて、ここからお客さんが席を立つ事はほとんどありません。
(そもそもそれまでは、主人公達の「退屈で平和な日常」を描写しているのだから退屈に感じるのは当然なんですが…)

その後の展開についての感想は以前、Amazon のDVD(実際はビデオテープ)レビューに「逃げる映画」というタイトルで長々と書いたので割愛させて頂きますが、
個人的にそのパートでの不満は、主人公のヒロシと波子が立ってるボードの両側から、炎を噴き上げるノズルがはっきり見えてしまっているのと、
ラストシーンのCGによる龍の現れ方が、右下から上に上がって左へ消えていく、2次元的、平面的で違和感があるという技術的な面です。
(竜のCGについては最初の登場シーンも、ほぼ顔のアップのみで全体像や動きが全くありません)

 

追記(2020年9月20日)

ようやく購入したブルーレイで久々に再見しましたが、

炎を噴き上げてるのはノズルではなく、たいまつのようで、

最後に出てくるのは竜ではなく、竜の絵の描いてあるサーフボードでした。

20回以上観たはずなのに、この記憶違いは恥ずかしい…

 

 

(最後のシーン)

波子「今日、帰る」
ヒロシ「俺、台風に名前つけたんだ」
波子「なんて?」

 

ここで映画は遠景になって主題歌が流れ出してエンドロールが始まるので、どんな名前を付けたのか観ている方はわかりません。
ずっとわからないし、たいした意味もないだろうと長年放置してましたが、長々と長文を書いているうちに何となく仮説が出てきました。

この映画は、主人公達の前の世代、稲村ケ崎で最初にサーフィンを始めた三人の男達と一人の女の子、というエピソードが随所に挟まれます。
その女の子はある日、波にさらわれて消えてしまったのだと波子の口から語られます。
そしてその子の名前はジェーンだと、伝説のサーファーの一人である骨董屋の主人、草刈正雄の臨終を前に、残った二人、伊武雅刀とパンタの口から語られます。

波子はジェーンの娘?もしくは生まれ変わり?
前回の台風に付けられた名前がジェーンなら、今回の台風の名前は波子…しかし、本編の台詞でそれを語らせてしまうと

 

ヒロシ「俺、台風に名前つけたんだ」
波子「なんて?」
ヒロシ「…ナミコ」

 

語感が残念ながらダサいので、言わせずにエンドロールに逃げた。というのが私の仮説です。
というか、それしかないような気がしてきましたし、今までそれに気付かなかった事に驚き、桑田さんからすれば「それすら伝わっていないのか…」と絶句するかもしれません…

そして改めて、とことん「逃げる映画」だったと再認識するのでした。


サーファーが波乗りする事から逃げ
伝説の大波を見せる事から逃げ
最後の台詞を言わせる事から逃げ


わかりづらい映画になるのは当たり前ですね。

 

でもこの作品、上手に描かれはしなかったけれど、とても魅力的な要素が満載のお宝の山のような気がします。
主人公ヒロシの鬱屈した性格が徐々に変わっていくとか、伝説のサーファーと現在の二世代に跨った物語とか、稲村ケ崎に住む名も無い人々の人間絵巻にしようというような試みとか。

ヒロシが着ている青いデニムシャツとベージュのチノパンの着こなしがカッコイイと思い、かなり長い間真似しました。
今でも映画「稲村ジェーン」は私の脳内で変換、美化されて燦然と輝く名作として残っています。